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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 6

 それは、谷口祐哉にとって、新たな獲物を見つける手段だった。
 彼は、バカな女が嫌いだった。テレクラに電話をして男を漁るようなバカな女は、この俺の性欲を満たす小道具になる以外に使い道がない。
 彼は、いつも持ち歩いているスポーツリュックを肩から下げて待ち合わせ場所に向かった。
 電話の主は二十歳と言っていたが、声の感じはもっと若かった。せいぜい中学生くらいか? そんな子供が大人をからかっちゃいかんのである。躾のできていない子供には、親に代わってこの俺が、きっちりと教育的指導をしてさしあげよう。
 彼女が物陰に隠れていて、こっそりこちらの様子を窺っているという可能性は、もちろん考慮している。だが、自分の顔を見れば必ず女は出てくるという自信が、谷口にはあった。
 谷口は年の割には童顔で、いわゆるジャニーズ顔だった。彼はこの顔が嫌いだったが、こういう場面では結構役に立つ。いや、こういう場面でしか役に立たないのだ。

 谷口の生まれ育ったのは、四方を山に囲まれた、小さな田舎町だった。
 勉強の良くできる、美しく整った顔立ちの谷口は、この町では神童扱いだった。親からも先生からもクラスメートからもちやほやされて育った彼が、自分のことを特別な、選ばれた人間だと思うようになってしまったのも無理はないかもしれない。
 学校には彼のファンクラブまで存在していた。しかし、彼はファンクラブなど作るような浅薄な女は大嫌いだった。だいたい、この顔に惹かれて集まってくる女にろくなのはいなかった。みんな股を開いて彼の上に乗りたがるようなのばっかりだ。困ったことに、彼の母や姉たちまでそうだった。
 女たちに不満はあったが、この町で過ごした十七年間は、瑕のない完全な世界だった。高校二年の時転入してきた生徒が学年トップの座を奪っていた時期だけが、彼の世界に微かな影を落としたが、彼女は家の都合で半年足らずで転校してしまったので、彼の自尊心は程なく復活した。人間、誰でも不調の時期はあるものさ。それがたまたま彼女がいた時期と重なってしまっただけだ。
 しかし、それが彼の美しい時代が終わりに近づいていた兆しだったのかもしれない。
大学に入学し町を出ると、彼程度の頭脳の持ち主はざらにいることがわかった。しかし、谷口はまだ諦めていなかった。彼のような容姿で頭脳を兼ね備えた男は、そうはいなかったからだ。他人に迎合しなくても、まだ自分を特別な存在だと信じていられる。天が二物を与えてくれたことが、彼のプライドの拠り所だった。
 だが、それも彼が社会に出るまでのことだった。
 入社試験はらくらくクリアして大手の企業に就職したものの、会社は彼をちやほやしてくれる場所ではなかった。彼よりも低レベルの大学出身の先輩や上司から罵倒されることもある。それが、谷口にとっては何よりも屈辱だった。
 そして、ジャニーズ系のこの顔である。
 どういうわけか、この顔は顧客や取引先からは信用されなかった。年より若く見えるのも良くない。おまえのようなぺーぺーじゃ話にならん、もっと責任ある立場の人間を出せ、と言われるのが常だった。もちろん、顔の第一印象を覆すような話術や交渉術を身につけていれば、事情は違ったであろう。しかし谷口は、他人からかしずかれる生活に慣れきっており、他人のために腰を屈めることを潔しとしなかった。その態度のせいで、ますます相手からの信用をなくした。
 商談もろくにできないくせに態度のでかい谷口は、同僚の間からも鼻つまみ者であった。あげくの果て、北海道の地方支店に左遷させられてしまったのである。

 谷口は、指定された待ち合わせ場所に時間きっかりに着いた。辺りを窺ったが、予想していたような中学生は見当たらなかった。ただ、少し離れた路上に肩と背中をやたらに露出させた化粧の濃い女が立っていた。谷口に興味を持ったようで、意味ありげな視線をちらちらと投げてくる。
(別にあれでもいいか。あんな格好でホテルの前に立っているような女はバカに決まっている)
 彼女のほうへ足を一歩踏み出したとき、背後から声をかけられた。
「あの……谷口くんじゃない?」
 振り向くと、顔立ちは悪くないが老けている女が立っていた。いや、老けていると思ったのは地味な洋服や化粧気のない顔のせいで、実際の年齢は谷口と同じくらいなのかもしれない。
「覚えてないかな。あたし半年ぐらいしかいなかったから。ほら、高校二年のとき同じクラスだった……」
「中村幸恵」
 忘れているはずはなかった。黒い髪を肩のところで切りそろえ、背筋を伸ばして歩くセーラー服の少女の姿が思い浮かぶ。初めて彼のトップの座を奪った女。彼の世界に瑕をつけた、最初の女。
「ああ、良かった。覚えててくれて」
 幸恵は、ふんわりと微笑んだ。そうやって笑うと、年相応の表情になる。
 谷口は、幸恵の服がみすぼらしく、髪にパーマもあたっていないのを見て、密かな満足を覚えた。こうして並ぶと、まるで俺たちは親子のように見えないか?
「今ヒマならお茶でも飲まない? 久しぶりだから、いろいろお喋りもしたいし」
 笑顔のまま、幸恵が言った。谷口は、即座にOKした。テレクラ女にも、露出女にも既に興味は失せていた。
 深夜営業のファミレスで、谷口は幸恵と向かい合ってコーヒーを飲んだ。
「……まあ、なんだかんだ言っても、あの頃の俺って『井の中の蛙』だったんだよな。社会に出て、初めてそれがわかったよ」
 多少脚色を加えたサラリーマン生活を語った後、自嘲的に谷口は呟いた。もともと井戸の外の人間だった幸恵は、そのことに気づいていただろう。自分から認めることで、あの頃の俺とは違うんだ、成長しているんだという、谷口なりの精一杯のアピールだった。
「そうね。……でも、高校生くらいって、みんなそうじゃない? 学校と家が自分の世界のすべて。今にして思えば、小さな世界だよね」
 幸恵は、砂糖もミルクも入れていないコーヒーを少しずつすすりながら言った。が、何かを思い出したらしく、微かに目を細めた。
「ねえ、『井の中の蛙』に続きがあるの、知ってる?」
「いや」
「井の中の蛙大海を知らず。されど」
 ここで幸恵は一息ついた。
「されど、空の青さを知る」
「空の青さ?」
「そう。あたしたち、ずっと井戸の中にいても良かったのかもね。ずっときれいな青い空を見ていられたのなら」
 その瞬間、谷口の胸の奥で殺意のようなどす黒いものが疼いた。
 何が「空の青さを知る」だ! そんな知識を俺にひけらかして、そんなに嬉しいか?
 空の青さ――ああ、俺は誰よりも青い空を知っていたさ。雲ひとつない、澄みきった空を。その空に、最初に雲の影を落としたのはおまえなんだよ。中村幸恵!
 不意に黙り込んだ谷口に気づいていないのか、相変わらず幸恵は呑気にコーヒーをすすっていた。そして、さり気なく腕時計に目を走らせると立ち上がった。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくる」
 谷口は、目の前の残っているコーヒーを見つめながら自問自答していた。
 なぜ、幸恵などについてきてしまったのだ。こうして新たに屈辱を感じるために?
 谷口は傍らに置いたリュックに触り、薄いナイロン布の下のビデオカメラやスタンガン、荒縄の感触を確かめた。
(……あの女をこれでヒーヒー言わせてやったら、面白いだろうな)
 そう考えると、ようやく落ち着きを取り戻し、口元には笑みさえ浮かんだ。水を注ぎにきたウェイトレスが、思わず見惚れてしまうほどの魅力的な笑み。
 その笑みを浮かべたまま、谷口は戻ってきた幸恵を見つめた。



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